みなさんは、出産時の肛門括約筋の損傷がのちのち便失禁の症状に関わる可能性があることをご存知でしょうか?周知の通り、出産は女性の体にとって大変なイベントです。
胎児は日々成長して出産時は体重3,000グラム前後、赤ちゃんの頭囲(BPD)も平均80~98ミリになっていると言われています。出産時の子宮口は全開で100ミリですから、少し頭の大きめの赤ちゃんの場合や分娩が急速に進んでしまった場合など、子宮口を出てくるときに会陰と言う周辺を取り囲む組織が裂けてしまったり、肛門括約筋が傷ついてしまうことがあります。
こうしたダメージはお尻を締める力を弱めてしまうため、便失禁の原因の1つになっているのです。
分娩時の会陰裂傷には、いくつかの種類があります。
・第1度会陰裂傷:会陰部の皮膚や膣壁粘膜表面のみ(かすり傷程度)
・第2度会陰裂傷:皮膚とともにその下の筋肉層まで損傷が及ぶもの
・第3度会陰裂傷:肛門を絞める筋肉の肛門括約筋が断裂したもの
・第4度会陰裂傷:会陰から肛門や直腸粘膜までが損傷したもの
このうち、第3度と第4度の会陰裂傷は、その場で主治医からなんらかの情報があったり、処置にも時間がかかったりするため、患者さんご本人も自覚できるでしょう。ところが、第1度や第2度程度の場合、それほどの自覚がないまま、うやむやになりがちです。出産から何年、何十年と経って、便失禁の症状が出て検査をしたところ、実は出産時に会陰裂傷が存在していたことがわかるケースもあります。
また出産時に、会陰に裂傷はなくても、外肛門括約筋に分布する陰部神経が切れてしまうこともあります。陰部神経は分娩台でいきむときに損傷しやすいのですが、ここが傷んでしまうと、意識的にお尻を締めることのできる外肛門括約筋に影響を与えるため、便が漏れやすくなってしまうと考えられます。しかも、若い頃は損傷部分の機能をそれ以外の筋肉が補っているために、すぐには便失禁の症状が出ず、会陰裂傷の場合と同様に加齢に伴って症状が顕在化するケースも多いものです。
このように便失禁は、現在から過去にさかのぼってその患者さんの肛門周辺の構造がどうなっているかを何通りも調べてから、原因が特定できることがほとんどです。複数の要因が絡まっているため、患者さんご自身で便失禁の原因を特定することはできないからこそ、専門医の受診をお勧めしていますね。
肛門括約筋や会陰裂傷などの状態は、肛門内圧検査や超音波検査、直腸肛門反射、直腸容量検査、排便造影などの検査を組み合わせることによって、判断されます。また、先に挙げた陰部神経の損傷は、筋電図検査によって診断することができます。
出産時には、会陰や肛門括約筋などの局所だけではなく、それらを含む骨盤底筋群自体にもダメージを受ける場合があります。便失禁にも関わる骨盤臓器脱(骨盤内にある子宮 、膀胱、直腸などの臓器が膣の中に落ち込み、膣壁と一緒に体外に脱出してしまう病気)は、まさに出産による骨盤底筋群の損傷が引き金になり、加齢とともに現れやすい症状です。
妊娠中の女性は、胎児の発達に伴って子宮もどんどん大きくなっていきます。そのとき、大きくなった子宮を支えるのが骨盤底筋群という筋肉の集合体。その名の通り、骨盤の一番底にハンモック状に広がり、背骨や足腰、内臓を支えながら、尿道や肛門・生殖器など体の外への「通り道」の役割を果たすという大きな役割を担っている筋肉群です。
骨盤底筋群は、妊娠中は赤ちゃんと羊水の重みを支え、出産の際には赤ちゃんの動きを受け止める骨盤や限界まで広がる会陰部を支えています。赤ちゃんはその間を押し破るようにして生まれてくるわけですから、骨盤底筋群にかかるストレスは大変なものです。出産の直後に尿もれに悩む女性が多いのは、この骨盤底筋群の傷みが原因といわれています。
出産に伴う骨盤底筋群のダメージは、時間の経過と共に修復されていきます。ただし、ケアが十分ではなかったり、出産を重ねたりする事でダメージが十分に修復されず、さらに加齢に伴って筋肉がゆるんできてしまうと、骨盤臓器脱や便失禁を誘発するようになるのです。
ちなみに骨盤臓器脱は、便失禁の直接の原因になるわけではありません。しかし、この二つの症状が併存する患者さんも実際かなりいらっしゃいます。これは、骨盤底筋群のうち肛門挙筋という骨盤を覆っている筋肉の衰えが、それぞれの症状を引き起こしやすいためと考えられます。
ただし、骨盤底筋群の筋肉はいくつもの種類があり、神経も複雑に通っているため、便失禁の症状が引き起こされる原因が単一ということは基本的にありません。そのため、骨盤臓器脱の治療をしても便失禁は残ったり、またその逆のケースもあります。共通して言えるのは、年を重ねて筋肉が衰えてくると、骨盤底筋群のダメージが疾患の呼び水になるということですね。
このように便失禁には、出産という女性ならではの原因が背景にある場合があります。だからといって治療法に変わりがあるわけではなく、まずは保存的療法を試み、効果の見られなかった患者さんは外科的療法に進むという通常のプロセスとなります。骨盤臓器脱などの疾患と便失禁の両方の症状のある患者さんは、まず骨盤臓器脱の治療を行ったうえで、便失禁の治療に移ります。
2014年4月に保険適応になったSNM(仙骨神経刺激療法)は、外科的療法の選択肢を増やしてくれました。骨盤底筋群の損傷があって、保存的療法で改善が見られなかった患者さんにとっても、可能性のある治療法といえます。
以前、産後すぐに便失禁の症状が出たものの、様子を見ようと主治医に言われそのまま6年間我慢していた患者さんが来院されました。その方の場合は、肛門括約筋の損傷がひどかったため、外科的療法の1つである括約筋形成術を行い、改善しました。長い間苦しんだ便失禁の悩みから解放されたご本人の笑顔が、印象的でしたね。
様子を見るように言われ、我慢している患者さんもいらっしゃるかもしれませんが、半年を超えても症状が改善しない場合は、何か原因がある可能性もあります。遠慮せず、専門医にご相談ください。
いま日本は超高齢社会に入り、便失禁に悩む方も増えています。なかには、もうトシがトシだから仕方がないとあきらめてしまい、ひたすら我慢を重ねている方もいらっしゃるでしょう。
でも考えてみてください。もし70歳で便失禁になり、旅行に行けない、食事にも行けない、好きなように外出することもままならない、という状態を90歳まで続けるとしたら……それは途方もないつらさではないでしょうか。
便失禁は特殊な病気でも、治らない病気でもありません。どうか専門医を受診し、快適な生活を取り戻して頂ければと思います。